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<<   作成日時 : 2009/04/30 06:54  

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最澄は神護景雲元年、西暦になおすと767年に現在の滋賀県の坂本の近くに生まれた。彼の家族の祖先は中国の漢時代のある天皇まで家系をたどれると言われたが、現代の学者によれば実かどうかわからないと考えられている。最澄のお父さんは仏教の信者で、最澄が生まれる前に父は比叡山に登って苦行などしていた。
話しを戻すと、最澄は七歳と十二歳の間に坊さんになりたいと思い、十二歳ごろ、近江の国分寺というお寺に入寺した。そこで、六年間、仏教の教義や瞑想など学んだから、後に、奈良のお寺で学んだものの、仏教への特別の信念が確立したところは近江の国分寺だった。
 十九歳まで、若い僧としての最澄の人生は特に変わったことがなかったが、奈良での修業が終わってから、一人で比叡山に登った。その時代では、聖職で昇進したいお坊さん、または仏教を学びたいお坊さんにとって奈良は憧れの地だった。が、奈良で聖職の生活を続く機会があった最澄が奈良を出て田舎の比叡山に行くことはごく異常な行動だった。とにかく、そこで十二年か、または十七年間住み、様々な仏教の経や高僧で書かれた釈義を自習したらしい。
 その時には大和の首都は京都ではなくて、長岡京だった。794年に首都は平安京、すなわち京都に移った。ところで、風水によると、東北の方から悪霊などがよく来て、比叡山は京都の東北端に位置しているので、最澄の立場は新しい首都を保護するのにうってつけの場所にあった。最澄にとって、とても幸運な偶然だったと言える。
 802年に最澄は中国に天台宗の教えを探しに行くために桓武天皇の許可を求めた。803年に最澄は日本の使節団と一緒に中国に行くつもりだったが、四つの舟で出発したものの、強いかぜのせいで急に引き返さなければならなかった。そして、一年間、九州のお寺に住んでその間、最澄は薬師如来像を作って道中の無事を祈った。翌年の七月にはもう一回使節団は出発した。この使節団の中に空海もいたが、別の舟に乗って航海中に風の生で舟が引き離されて空海は福建(Fujian)に下船したと同時に、最澄は明州(Ming-chou)下船してしまった。その二人は中国で日本に帰国する前に会わなかった。
 ところで最澄は天台山で天台の教えを学んだ。それから禅や密教や梵網戒も学んだ。そのときに、中国仏教には別々な宗派があったが、違う考え方や儀式などを示して、日本の江戸仏教のような宗とは違った。
 全部で最澄は八か月半しか中国にいた。漢文が読めたのに、全然中国語が話せなかった。日本から若い雲水が通訳者として最澄と一緒に行ったが、その雲水と日本で中国語を習ったので、とても上手ではなかったと考えられる。それで、最澄は中国で習った教えなどがどのほど分かったか知りにくい。
 言うまでもなく、日本に帰ってから比叡山で天台という日本仏教の一つの宗を開山した。そのころに、大和の朝廷は天台の教えや儀式に関心を寄せていた。特に、火事や飢饉や伝染病などを防ぐため、または戦争で勝つために朝廷は僧団がさまざまな儀式をさせることがあった。例えば、804年に大きい地震の後で、最澄は朝廷に地震の再発を止めさせるように経を唱えて儀式をするように命じられた。

822年に、最澄は死んだ。平安時代と鎌倉時代には、最澄が創始した天台宗は宗教的に大切な宗だったし、経済的や政治的な勢力がある宗派として、大きい影響があった。

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